日本人の宗教心のなさは、昔から世界的に有名です。1976年アメリカ版「リーダーズ・ダイジェスト」は、日本のことを「唯一の独自の神を認めず、霊的価値を尊ばぬ」、「金と成功と享受」を「人生目的とする国であり国民である」と批評しています。散々な言われようです。
很久以前开始,日本人没什么宗教信仰就是世界闻名的。1976年美国出版的《读者文摘》对日本一顿数落,批评它是“不认同独一无二的神、不尊重神灵的价值”批评其是“一个国民的人生追求只有金钱、成功和享受的国家”。
「日本人は子どもが生まれたら神式にお宮参りへ行き、結婚式はキリスト教式にチャペルで挙げ、死んだら仏式に葬式供養をする」とは、日本人のごった煮宗教観を揶揄する定番文句です。もし旅人たちに「日本人は何の宗教を信じているの?(Which religion do Japanese people believe in?)」と尋ねられたら、どう答えればいいでしょうか。
新生儿降临时会按神道仪式去参拜神社,结婚典礼又会以基督教的形式在基督教堂举办,葬礼又会以佛教形式举办丧礼为其供奉香火。这些嘲讽的话常被用来揶揄日本大杂烩式的宗教观。如果游客提问:“日本人信什么教呢?”,不知该如何回答比较合适。
「統計的には神道を信じている人が大半だよ」
经统计多半人信奉神道教
平成25年度の文化庁の調査によると、日本人の48.0%は神道系、45.7%は仏教系、1.6%はキリスト教系の信者だそうです(残りは4.8%はその他)。
平成25年文化厅调查显示:约48%的日本人信奉神道,45.7%的日本人信奉佛教,1.6%的日本人信奉基督教(剩下4.8%的日本人信奉其他教派)。
ただ、その48%の中に「自分は神道を信仰している」と強く自覚している人が、どれだけいるか――。このデータは、あくまで名目上のものです。
但是,这48%的人中对于“我是信奉神道教”有着强烈自觉性的人到底有多少——仍未可知。这个数据充其量也只代表表面。
「統計的には」「形式の上では」といったニュアンスを表すには、technicallyの単語が便利。以下のように答えましょう。
“据统计”和“形式上来说”这样带有细微差别的表达方式,使用学术型的单词更为便利。比如以下回答那样。
「日本人の多くは無宗教だと思うな」
我认为多数日本人是没宗教信仰的
「日本人は無宗教」という概念がしっくりくる人もいるでしょう。religious(敬虔な、信心深い)の単語に否定の接頭辞をつけ、irreligious(無宗教の)という単語で表します。
也有人认同日本人没有宗教信仰这一想法的吧。在单词religious(宗教的、虔诚的)前加上否定接头词“ir”变成irreligious(无宗教的)这一表达形式。
ちなみにアメリカはキリスト教(プロテスタント)の国ですが、最近は「無宗教」を自認する人が増えています。といっても、日本人のように「そういえば無宗教かも」と感じるというより、意識的に「無宗教」を選び取る人が多いのです。意識的に選ぶことをby choiceと表します。
顺带一提,美国是基督教(新教徒)的国家,但是最近承认自己“无宗教信仰”的人越来越多。话虽如此,比起日本人的“这么一说我应该是无宗教吧”,在美国应该是有意识选择“无宗教信仰”的人增多了。有意识的选择用by choice来表示。
「いろんな神様を、必要に応じて信じているのさ」
我们信仰各路神明是坚信他们会回应我们。
「困った時の神頼み」という言葉が表すように、「必要な時は神の存在を信じ、そうでない時は特に意識しない」というのが日本人のメンタリティであるようにも思います。受験や就活シーズンに熱心な神仏崇拝者が増えるのは、日本ならではの現象です。
就像是“临时抱佛脚”所要表达的意思一样,日本人的心里想法就是“必要时才相信神明存在,否则不会有所意识”。在备考或是就业季,神明崇拜者大大增加也是日本才有的现象。
ところで日本人が信じるところの「神様」は、GodではなくそのままKamiという単語を使いましょう。英語でGodと言ってしまうと、超自然的な唯一神を連想させるからです。
说起日本人信奉的“神明”,单词表达是“Kami”(神)而不是God(上帝)。英语里的God,会联想到超自然的独一无二的神明。
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