这两句日语意思上有什么区别(这句日语所表示的三个意义)(1)

多くの日本人が最もよく使う言葉のひとつ、「すみません」の懐深さを考える

(照片:多数日本人经常使用的语言之一“すみません”中内涵的情怀)

「すみません」で会話

(用“すみません”会話)

先日、法事のために、私の自坊のとあるご門徒(浄土真宗を信仰する方々。ちなみに、その他の仏教宗派の信者さんは一般的にはご檀家さんと呼ばれます)の家を訪問しました。

約束の時間通りに到着し、インターホンのボタンを何度か押しても何の反応もないので、玄関のドア越しに大きな呼びかけた言葉が「すみませ~ん」でした。

(前几天,因做法事我造访自家某个弟子[指信仰净土真宗的信徒。顺便提及,其他佛教宗派的信徒称为“施主”]的家,在约定的时间里到达后,按了好几次对讲机的按钮没有反应,就径直到大门口大声地招呼“すみません”,)

すると、家の中からご門徒さんが慌てて出てこられて、「すみません、インターホンが壊れていて」と仰いました。

(于是,那弟子急匆匆地从房子里面出来,解释说“すみません,对讲机坏了。”)

すると、私は笑顔で「そうだったのですね。すみません、お邪魔します」と家にあがり、ご門徒さんは「すみません、どうぞ」と家の中に案内して下さいました。お気付きでしょうか。ちょっとした会話の中で、四回の「すみません」のキャッチボールです。

(对此,我笑着作答“是吗?すみません,那打扰了。”就走进他的家,弟子一边说“すみません,请!”一边把我迎进到家中。大家注意到了吧,短短的一段会话里,相互如接发球似地连说了四个“すみません”。)

日常生活において、多くの日本人が最もよく使う言葉のひとつに、「すみません」があると思います。これをただ普通に英訳すると「I am sorry.」となり、「ごめんなさい」という謝罪の意味となります。しかし、この会話中の四回の「すみません」が、すべてこの謝罪の「I am sorry.」という英訳になるかというと、首を傾げる方が多いのではないでしょうか。

(日常生活中,很多日本人最经常使用的语言之一,我想就是“すみません”,把这个词单单译成英文就是“I am sorry”,有“对不起”表示谢罪的意思。但如上面会话中四次“すみません”,全部译成英文的“I am sorry”表示谢罪,大概很多人不会苟同吧。)

実は、私たちが使う日本語の「すみません」には、複数の意味があるのです。私たちはシチュエーションによって、その複数の意味を自然と使い分けているのです。

(实际上我们使用的日语“すみません”中,具有很多含义。我们根据场合的不同,应自然地区别各种具体意义。)

このことをきちんと踏まえずに、日本語の感覚で英語を話してしまうと、会話中に「I am sorry.」を連発することになってしまい、西洋人になぜそんなに会話中に謝るのか不思議がられることでしょう。これは、まさに私が渡米したばかりの頃の姿です(笑)。

(如不适当地依据具体语境,凭日语字面的感觉说成英语的话,在会话中连续发出“I am sorry.”,西方人就会觉得不可思议,觉得为什么要这样不断地道歉呢?这确实是当时我刚到美国时的情景。)

「すみません」を三つの英語にすると

(把“すみません”译成三种英文)

それでは、私たちは「すみません」という言葉を、どのように使い分けているのか整理してみたいと思います。

(那么,我们分析一下把“すみません”这个词,如何来区别理解呢?)

先に結論を言うと、私たちはシチュエーションに応じて「謝罪」「感謝」「依頼」(呼びかけ)という三種類の意味の「すみません」を使い分けています。この三種類の意味を明確にするために、まず「すみません」という言葉の語源を考えてみたいと思います。

(先说一下结论,我们根据具体语境可以把“すみません”分为“谢罪”,“感谢”,“请求”[包括打招呼]这三层意思。为了比较清晰地区别这三层意思,首先考虑一下“すみません”这个词的词源。)

「すみません」という言葉を解体すると、「すみ」「ませ」「ん」という三つに分解できます。「すみ」は、動詞「済む」の連用形、「ませ」は丁寧語の助動詞「ます」の未然形、「ん」はこれらを打ち消す助動詞「ぬ」の変化形の語です。

(将“すみません”这个词分解开来,即可分为“すみ”“ませ”“ん”三个。“すみ”是动词“済む”的连用形,“ませ”是礼貌语助动词“ます”的未然形,“ん”是否定助动词“ぬ”的变化形式。/ 即“ない”--译者注)

「済む」には「物事が完了する」「仕事が終了する」という意味があります。しかし、「済む」の同源に「澄む」というものがあり、これは「心配や邪念がなく、心がすっきりする」という意味を持つようです。この二つの意味を合わせると、「すみません」は、仕事を終了させることができなかったり、約束事を守れなかったとき、申し訳なくて「自分の気持ちがおさまらない」という「謝罪」の意味になります。これが三種類のうちの第一の意味です。これは英語で「I am sorry.」と表現しても問題ないように思います。

(“済む”这词里面有“事情完了”“工作结束”这类意思。但与“済む”同一词源的汉字还可写成“澄む”,意为“清澈;澄清”,所以它还具有“没有担心杂念,内心舒畅”这样的意思。把这两个意思综合起来,“すみません”可以用于,如交给的工作没有完成,约定没有遵守等场合,表示不好意思“心留遗憾”这样一种“谢罪”的想法,这是三层意思中的第一个意思。我想可以译为英语的“I am sorry.”比较符合。)

そして、第二の意味は、「感謝」の意味です。これは、相手から何かを頂いたときや、何かをしていただいたとき、その有り難さに対して申し訳ないことに何もお返しができず、「自分の気持ちがおさまらない」という深い「感謝」の意味になります。これを英語にすると、「Thank you.」となります。

(接着,第二层意思,即表示“感谢”。这是从对方那里得到了什么,或者对方为自己做了什么的场合,对此觉得珍惜却又无什么可以回报而感到内疚,这样就用这个言语说明自己内心的不好意思,并表示深深的感激之情。)

さらに第三の「依頼」(呼びかけ)の意味は、「謝罪」と「感謝」の意味も幾分か含んでいます。よく考えてみると、私たちが相手に何かを依頼するとき、それは相手に何かしらの負担をかけることになるのです。私たちはそれを無意識にも認識し、そこから申し訳ないという「謝罪」と「感謝」の思いが心に生じ、「すみません」という言葉を使うのです。

(进一步,第三个包含的“请求”[包括打招呼]意思,内中也有些许“谢罪”“感谢”的语义,仔细思考一下,我们向对方托付请求什么事时,内心无意识地会认识到这会给对方带来某种负担,于是自然就引申出了不好意思的“谢罪”“感激”的情绪,嘴上就冒出了这句“すみません”。)

また、前を歩いている人を呼び止めるときでも、深く考えてみると、その人の行為を中断させ、こちらに振り向かせるという負担をかけていることになります。

ですから、「(邪魔して)すみません」と言って声をかけるのです。これは「Excuse me.」という英語で表現できるでしょう。

(另外,有事唤住走在前面的人的场合,细细考虑一下,同样中断了对方的行为,让他回过头来这也是一种打扰。因此,说一声“打扰您了对不起”,这相当于英语的“Excuse me.”吧!)

このように、英語にすれば三つの表現になる言葉を、日本語では「すみません」のひと言でまとめているのです。このことを整理していなければ、「すみません」を正確に英語には訳せないでしょう。しかし、それでも日本語では不自然さを感じることなく会話ができてしまうところに、相手を大切に考え、相手を理解しようとする日本人のおくゆかしさを感じます。

(这样,用英语表达需三个词语的语境,日语里用一句“すみません”就可以涵括起来。如不好好归纳分析的话,就很难把这正确地译成英文吧。不过,用日语自然地进行这类会话时,日本人还需考虑到重视对方,企图理解对方这样一种深层次的内涵,确实使人感受到日语的深邃和优美。)

三つの「すみません」の基盤

(三个“すみません”的基石)

ここまでは「すみません」に含まれる三つの意味を整理しましたが、実はその三つの意味に通じる基盤となる思いがあります。それが、「申し訳ない」という思いです。しかし、これは単に他人に迷惑をかけてしまうというような外側に向く反省ではなく、その迷惑をさせてしまう自分自身という内側に向く内省です。つまり、自責の念です。

(到此为止,我们把“すみません”所包含的三层意思作了归纳,其实我们可以发现有一个贯通三个意思的基石。这就是“对不起”这个思想。但是,这不是单单对他人添了麻烦而面向外侧的反省,并且还包含着给对方带来麻烦而面向自身的内疚,也就是自责的念头。)

これは、物事や結果の原因を他者の求めない「仏教の教え」に通じるものがあります。仏教には「自灯明」(じとうみょう)、「法灯明」(ほうとうみょう)という教えがあります。これらは仏教の開祖として知られるお釈迦さま(釈尊ともいいます)が亡くなる前に、お弟子さんたちに送った言葉とされています。

(这种旁人不去寻求事物或结果的想法与“佛家教诲”有相通的地方。佛教里有“自灯明”“法灯明”的说法,这是佛家创始人佛祖释迦摩尼圆寂前教诲弟子的最后遗言。)

お弟子さんたちは師匠であるお釈迦さまの命があとわずかと知り、お釈迦さまが亡くなった後、何を生きがいにすべきなのか問いました。

(弟子们眼看师傅快要圆寂之时,询问佛祖“人生怎样活得有意义?”)

その問いに対してお釈迦さまがお答えになったのが、「人に頼るのではなく、自らをよりどころにしなさい(自灯明)」、「法(真実の教え)をよりどころにしなさい(法灯明)」という教えでした。

(对这个问题,释迦摩尼教诲弟子道:“不是依赖他人,请依靠自己”[即,自灯明],请把法[实际教义]作为依凭[即法灯明]。)

これは、苦しみ(満足できない心)や困難があったとしても、むやみに他の人を頼ったり、他者に問題の責任転換をしたりしてはならない、という意味です。「苦しみの原因も、またその解決も、自分の中にある」と説くのが仏教の教えです。私はこの教えが「申し訳ない」という思いそのものであり、結果的には「すみません」という言葉の精神であると思うのです。

(它的意思就是,尽管会遇到痛苦[包括难以满足的心]和困难等不如意的事,但也不能依赖他人,或者把责任推诿给他人。“痛苦的起因也好,解决的办法也好,全在自己身上。”这就是佛所教诲的。我认为这个教诲的核心其本身内涵,作为根本精神来说就是体现在“すみません”这个词汇上。)

昔、学生時代にある本(『菊と刀』ルース・ベネディクト著)を読んでいて、西洋的な観点から見ると、日本は「恥」を大事にする文化だと書かれている一文を目にしました。その時は、あまりその表現や意味が自分の中でしっくりこず、深く考えることもしませんでした。

(早年,学生时代我看过一本书,露丝倍特克著的“菊和刀”,从西方观点来看,记得上面有一句“日本文化是重视羞耻的文化”,当时我对此不以为然,也没做过深刻的思考。)

しかし、自責の念をもって、自分の不甲斐なさによって他者に何かしらの負担を与えてしまうことに対して申し訳なく、気持ちがおさまらないということを「恥」とすれば、やはり日本は「恥」を大事にする文化なのかもしれない。そう改めて考えさせられました。

(但是,有了自责的念头,就会滋生由于自身的窝囊给对方添加了某种负担而觉得很抱歉的心情,从而产生内疚的“羞耻”感,这或许就是日本重视“耻”的文化背景吧。这样又使我不得不重新思考起这个问题来。)

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