历史中日对战胜率(中日对译辺城一)(1)

边城/辺城(へんじょう)

                     沈従文 作 /李 耀 訳

●私が表現しようとするのは本来一種の「人生の形式」で、一種の「優美で、健康で、そしてまた人性に悖らざる人生の形式」である。(沈従文)

●我要表现的本是一种“人生的形式”,一种“优美、健康而又不悖乎人性的人生形式”。(沈从文)

●『辺城』は一編のidyllic(田園詩的な)傑作である。……これはまた一粒の千古不磨の珠玉でもある。(李健吾)

●《边城》是一部idyllic(田园诗的)杰作。……这是一颗千古不磨的珠玉。(李健吾)

四川より湖南へ行くのに、東寄りに一本の公道がある。この公道は湖南にある湘西辺境を間近にして、地方名を「茶峒」という小さな山城に差しかかった時、一筋の小さな渓川があり、渓辺に一基の白色の小塔があり、塔下には独立した一家が住んでいる。この一家にはただ一人の老人と、一人の女の子と、一匹の赤犬だけしかいない。

由四川过湖南去,靠东有一条官路。这官路将近湘西边境到了一个地方名为“茶峒”的小山城时,有一小溪,溪边有座白色小塔,塔下住了一户单独的人家。这人家只一个老人,一个女孩子,一只黄狗。

小渓は流れ下って行き、山を繞り岨そわを流れて、約1.5キロのところで落ち合って茶峒を流れる大河に注ぐ。人はもし渓川を渡り小山を超えて歩いて行けば、わずか0.5キロの道程で茶峒の城辺に到着したことになる。渓流は弓腰の如く、山路は弓弦の如くで、故に道程の遠近には小々の差がある。小渓は幅が約20丈ぐらいで、川床が一面に広がる石より成っている。静かな渓水はたとえ一棹では水底を突き切れないほど深いにしても、依然として澄み透っていて、河の中を行き来している遊魚も皆一つ一つはっきりと数えられるほどだ。

小溪流下去,绕山岨流,约三里便汇入茶峒的大河。人若过溪越小山走去,则只一里路就到了茶峒城边。溪流如弓背,山路如弓弦,故远近有了小小差异。小溪宽约二十丈,河床为大片石头作成。静静的水即或深到一篙不能落底,却依然清澈透明,河中游鱼来去皆可以计数。

小渓はかねて四川と湖南との間を往来する要路になっており、水には常に漲落があるが、財力に限られて架橋不能なので、一艘の方頭の渡し舟が配置されている。この渡し舟は、人馬もろともに一度に約二十人の客を乗せて渡すことができるが、人数が多すぎる時には繰り返し往復する。渡し舟の舳先には一本の小さな竹竿を立てており、竹竿に一つの滑動可能な鉄の輪が掛かっている。渓川両岸のガイドウエーには一本の廃されたとも綱が引き渡してある。渡しを渡る人がいる時には、船上の船人は鉄環を廃された纜に掛けて、両手を交互に繰り返してその纜を攀じ縁たぐりながら、ゆっくりと舟を対岸まで引いて行く。

小溪既为川湘来往孔道,水常有涨落,限于财力不能搭桥,就安排了一只方头渡船。这渡船一次连人带马,约可以载二十位搭客过河,人数多时则反复来去。渡船头竖了一枝小小竹竿,挂着一个可以活动的铁环,溪岸两端水槽牵了一段废缆,有人过渡时,把铁环挂在废缆上,船上人就引手攀缘那条缆索,慢慢的牵船过对岸去。

舟がまさに着岸しようとしていると、この渡し舟を管理する者は、常に口の中で「ちょい待ち、ちょい待ち」と叫びながら、自分ではひらりと岸の上に跳び移って、鉄環を引っぱって舟をしっかりと止める。こうして人も荷も牛馬も全部陸に上がって、小山を越えて見えなくなるのだ。

船将拢岸了,管理这渡船的,一面口中嚷着“慢点慢点”,自己霍的跃上了岸,拉着铁环,于是人货牛马全上了岸,翻过小山不见了。

渡し場は公の所有で、ゆえに渡しに渡る人は誰だって金を出す必要はないのだ。それにしても、心中安らかではないので、一つかみの銭をつかみ出して甲板の上に投げやる人がいる。そんな時には、渡し舟の係は必ずその金を一つ一つ拾い上げて、依然としてその人の掌の中に押し込み、厳然として口喧嘩時のように真剣な顔つきをして言う。

「わしは口糧を得てて、米三斗に、銭七百で、十分結構なんだ。これなんか誰に要るもんかい」

渡头为公家所有,故过渡人不必出钱。有人心中不安,抓了一把钱掷到船板上时,管渡船的必为一一拾起,依然塞到那人手心里去,俨然吵嘴时的认真神气:

“我有了口粮,三斗米,七百钱,够了。谁要这个!”

だが、それにしても駄目で、なぜなら、凡ての事には心安らかで合理的であることが求められて、骨を折ってもらっていながら報酬を受けないなどと言われたことを誰でも恥ずかしがるもので、どうしても金を与える人はまだいるのだからだ。ただ渡し舟係は情にほだされて、自分も心の安らかさを求める目的のために、これらの金を人に託して茶峒から茶葉や葉タバコを買って来てもらい、茶峒産の上等の葉タバコを、一束一束自分のバンドに吊るして、誰にでもこの物が要る渡し客には必ず気前よくさしあげる。

但不成,凡事求个心安理得,出气力不受酬谁好意思,不管如何还是有人把钱的。管船人却情不过,也为了心安起见,便把这些钱托人到茶峒去买茶叶和草烟,将茶峒出产的上等草烟,一扎一扎挂在自己腰带边,过渡的谁需要这东西必慷慨奉赠。

時には顔つきから、身につけた葉タバコがその遠来の旅人のかなりの注意を引いているのだと推測した時、渡し守は小束の葉タバコを一束その人のふろしき包みにからげ付けてやりながら、こう言っている。

「兄さん、これを吸ってみないかい。こりゃいいぜ、こりゃうまいぜ。見た様子ではものにならなくて、大きさも掌ぐらいの葉っぱだが、味は結構いけるんだよ、人に贈るにもうってつけだぜ」

そして茶葉は、六月に大甕に入れ、熱湯に浸してお茶を淹れておき、道行く人に随意に渇きを癒やしてもらうのだ。

有时从神气上估计那远路人对于身边草烟引起了相当的注意时,便把一小束草烟扎到那人包袱上去,一面说,

“大哥,不吸这个吗,这好的,这妙的,看样子不成材,巴掌大叶子,味道蛮好,送人也合式!”

茶叶则在六月里放进大缸里去,用开水泡好,给过路人随意解渴。

この渡し舟を管理している者は、ほかでもなく塔下に住むその老人だ。七十年生きているが、二十歳からはこの小渓のほとりで渡しを守っており、五十年来、この舟を往復させてどれだけの人を渡したことか知れない。今では人はそれほど年老いていても、まずまず硬骨漢ではあって、ただ本来なら当然休息すべきなのだが、しかし、天は彼が休息するのを許さず、彼はどうやらそれで、彼はどうやらそれでこの一分の生活と離れることが不可能であるようだ。。彼はこれまで自分の職務が本人に対する意義を思慮したことはなく、ただ静かに忠実にそこに生きていくだけなのだ。

管理这渡船的,就是住在塔下的那个老人。活了七十年,从二十岁起便守在这小溪边,五十年来不知把船来去渡了若干人。年纪虽那么老了,骨头硬硬的,本来应当休息了,但天不许他休息,他仿佛便不能够同这一分生活离开。他从不思索自己的职务对于本人的意义,只是静静的很忠实的在那里活下去。

天の代わりに、彼をして、日が昇る時に、生活の力を感じ取らしめ、同じく日が落ちる時に、また落日とともに死んでしまおうかと考えしめるまでには至らないものは、彼のそばに付き添っているこの女の子だ。彼の唯一の仲間は一艘の渡し舟と一匹の赤犬で、唯一の身内の人はただその女の子だけ。

代替了天,使他在日头升起时,感到生活的力量,当日头落下时,又不至于思量与日头同时死去的,是那个伴在他身旁的女孩子。他唯一的朋友为一只渡船与一只黄狗,唯一的亲人便只那个女孩子。

(つづく)

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