日本周刊少年jump新封面(周刊少年JUMP杂志的成长也如同一部少年漫)(1)

1968年07月11日 集英社の漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」が創刊された日

1968年07月11日 集英社漫画杂志《周刊少年JUMP》创刊之日

新人発掘と毎週の競争と新陳代謝

发掘新人、每周的竞争和新老交替

以前、NHKで『のぞき見ドキュメント 100カメ』という番組があった。ある特定の場所に100台もの固定カメラを設置し、そこにいる人々の生態をのぞき見るというもの。その第1回が集英社の『週刊少年ジャンプ』編集部だった。

以前,NHK出过一档《用100台摄像机偷偷观察》的节目。在某个特定的地方设置了100台固定照相机,观察生活在那里的人们的日常。第一集就是集英社的《周刊少年JUMP》编辑部。

日本周刊少年jump新封面(周刊少年JUMP杂志的成长也如同一部少年漫)(2)

廊下の壁一面にこれでもかと貼られた販促用のポスター、デスクの上にはギャグ漫画のように山積みされた資料に、カップラーメンと携帯電話が似合う編集者たち―― とまぁ、絵に描いたような雑誌編集部の様子が生々しく映し出されて面白かったんだけど、中でも興味深かったのが、持ち込みの新人作家への対応と、毎週の読者アンケートのランキング発表だった。

走廊的一面墙壁上贴着促销用的海报,桌子上堆积如山的资料就和搞笑漫画里的场景一样,以及对泡面和手机的生活习以为常的编辑们——就好像,画中的杂志编辑部活生生的出现在眼前,非常有趣,其中让人感兴趣的是对新人漫画家的回复和每周读者问卷调查的排行榜发布。

編集部への持ち込みは毎日10件以上もあり、なんと、絶対に断らないという。大体、編集者が原稿を読んでいる間、新人作家たちは緊張してお茶も喉を通らない様子で、その後にもらうアドバイスは結構辛らつな意見も多いんだけど、愛のある厳しさが垣間見えたりもした。

每天都有10位以上的新人来到编辑部要投稿,编辑部绝对不会拒绝。一般来说,在编辑读原稿的时候,新人漫画家们紧张得连茶都喝不下去,之后得到的建议大多都很苛刻,但是也能窥见是含有爱意的严格。

日本周刊少年jump新封面(周刊少年JUMP杂志的成长也如同一部少年漫)(3)

一方、そんな編集者たちも、毎週やってくる読者アンケートの発表の日は一転、緊張した面持ちに。それもそのはず、その結果次第で、担当する連載の打ち切りが決まることもあるから。実際、番組では携帯電話で担当する作家に打ち切りを伝える様子も映し出された。

另一方面,掌握新人命运的编辑们,在每周读者问卷调查发布日也神情一换,露出紧张的表情。当然是因为,根据结果,自己负责的漫画可能会被腰斩。实际上,节目中也播出了用手机向负责的漫画家传达连载中止的情况。

とはいえ、そんな打ち切られた作品に代わり、新人作家の作品が華々しくデビューするサイクルが繰り返され、今日の “ジャンプ帝国” が築かれたのだ。新人発掘と毎週の競争と新陳代謝―― これがジャンプの三大原則「友情・努力・勝利」と並ぶ、同編集部のDNAである。

话虽如此,旧人落幕新人漫画家华丽出道,这样的循环不断上演,才造就了今天的“JUMP帝国”。发掘新人、每周的竞争和新老交替——这就是与JUMP的三大原则“友情、努力、胜利”并列的编辑部的DNA。

少年誌群雄割拠の時代に培われた「週刊少年ジャンプ」のDNA

少年杂志群雄割据时代培养出的“周刊少年JUMP”的DNA

日本周刊少年jump新封面(周刊少年JUMP杂志的成长也如同一部少年漫)(4)

そう、DNA――。時に、今から54年前の今日、1968年7月11日に『週刊少年ジャンプ』は創刊されたんだけど、当時は先行する『少年マガジン』(講談社)、『少年サンデー』(小学館)、『少年キング』(少年画報社)らに人気作家を取られ、仕方なく新人作家ばかりを集めて船出したという。

没错,DNA——。当时,距今54年前的今天,1968年7月11日,《周刊少年JUMP》虽然创刊了,但当时的人气漫画家已经被《少年Magazine》(讲谈社)、《少年Sunday》(小学馆)、《少年King》(少年画报社)等杂志瓜分完,没办法只好从新人漫画家下手。

その後、そんな新人たちから永井豪先生や本宮ひろ志先生らスター漫画家が育ち、ジャンプは先行する少年誌らを抜き去り、1973年に発行部数でトップに立つ。そんな歴史から、常に新人作家の発掘に余念のない、持ち込み作家を決して断らない同編集部のDNAが生まれたのである。

之后,永井豪和本宫宏志等明星漫画家从这些新人中成长起来,JUMP超越了之前领先的少年杂志,在1973年发行册数位居首位。从这样的历史中,诞生了一直致力于发掘新人漫画家,绝不拒绝上门漫画家的JUMP编辑部的DNA。

え? そこから今日まで、ジャンプ一強の時代が続いているのかって?

什么?你说从那时候到现在,一直都是JUMP独强的时代?

日本周刊少年jump新封面(周刊少年JUMP杂志的成长也如同一部少年漫)(5)

いえいえ、そう簡単にコトが運ばないから、世の中面白い。実は少年誌の競争にとって、かつて最も面白い時代があった。それが1970年代後半から80年代前半までの、いわゆる少年誌の群雄割拠時代。少々、前置きが長くなったが、今回はその時代の話である。

不不。因为事情不会那么简单地进展,所以世界很有趣。其实对于少年杂志的竞争来说,曾经有过最有趣的时代。那是20世纪70年代后半到80年代前半,也就是所谓的少年杂志群雄割据时代。虽然开场白有点长了,但这次我们讲的是那个时代的故事。

そう、群雄割拠――。NHKの大河ドラマも大抵、人気が高いのは、戦国時代モノである。中国の歴史ものでは、群雄割拠の『三国志』が人気。テレビのプロ野球中継も、最も視聴率が高かったのは、巨人のV9時代(1965年~73年)ではなく、その後の70年代半ば~80年代半ばの群雄割拠時代である。ほら、大洋ホエールズを除く5球団が代わり番こに優勝したあの時代――そう、日本人は屈指の群雄割拠好き。それは少年誌でも同じだった。

没错,群雄割据——。NHK的大河剧一般受欢迎的都是战国时代的作品。在中国的历史作品中,群雄割据的《三国志》最受欢迎。电视的职业棒球转播也一样,收视率最高的也不是巨人的V9时代(1965年~73年),而是之后的70年代中期~80年代中期的群雄割据时代。是那个,除了Taiyo Whales以外的5支球队轮流获胜的那个时代——是的,日本人是屈指可数的群雄割据爱好者。这一点也表现在少年杂志上。

1970年代後半、圧倒的だった少年チャンピオン人気

1970年代后半,拥有压倒性人气的《周刊少年Champion》

日本周刊少年jump新封面(周刊少年JUMP杂志的成长也如同一部少年漫)(6)

時に、1970年代後半―― 当時、僕ら小学生の間で最も人気の高い少年誌は、今では信じられないが、圧倒的に『少年チャンピオン』(秋田書店)だった。連載漫画は『ブラック・ジャック』(手塚治虫)を筆頭に、『ドカベン』(水島新司)、『がきデカ』(山上たつひこ)、『魔太郎がくる!!』(藤子不二雄)、『ふたりと5人』(吾妻ひでお)、『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ)、『750ライダー』(石井いさみ)、『ゆうひが丘の総理大臣』(望月あきら)等々。そして、遂にチャンピオンはジャンプを抜いて、発行部数で250万部と、トップに立ったんです。

1970年代后半,当时,在我们小学生中人气最高的少年杂志,现在可能难以置信,但绝对是《周刊少年Champion》(秋田书店)。连载漫画以《怪医黑杰克》(手冢治虫)为首,有《大饭桶》(水岛新司)、《搞怪刑警》(山上龙彦)、《魔太郎来了!!》(藤子不二雄)、《2人对5人》(吾妻日出夫)、《通心粉菠菜庄(暂译)》(鸭川燕(暂译))、《750骑士》(石井伊佐美(暂译))、《夕阳丘的总理大臣(暂译)》(望月明(暂译))等等。最后,少年Champion终于超过了JUMP,发行册数达到250万部,位居首位。

日本周刊少年jump新封面(周刊少年JUMP杂志的成长也如同一部少年漫)(7)

当時のチャンピオンの編集長は、コワモテで知られる伝説の壁村耐三サン。工業高校を中退して秋田書店に入社した叩き上げで、若い時に手塚治虫の担当を務めた縁で、後年、スランプに悩む漫画の神様に「医者の漫画を描いたら?」と提案して、あの『ブラック・ジャック』が生まれたという。

当时少年Champion的主编是以强硬态度而闻名的传说中的壁村耐三。从工业高中退学后进入秋田书店锻炼,据说因为年轻时担任了手冢治虫的负责人,后来曾对陷入低迷而烦恼的漫画之神提议:“画医生的漫画怎么样?”于是,那个“黑杰克”诞生了。

しかし―― そんなチャンピオンの全盛期は、長くは続かない。70年代末、人気連載が続々と終了すると、一気に部数は激減。代わって、80年代に入って部数を伸ばしたのが、『少年サンデー』だった。当時の目玉連載は、『がんばれ元気』(小山ゆう)、『まことちゃん』(楳図かずお)、『うる星やつら』(高橋留美子)、『タッチ』(あだち充)―― と、時代はラブコメ流行りへ。1982年末発売の合併号では228万部を記録して、いよいよトップの『週刊少年ジャンプ』の背中を捕らえたかに見えた――。

但是——少年Champion的全盛期并没有持续很久。70年代末,人气连载陆续完结,销量一下子锐减。取而代之的是进入80年代后销量增加的《少年Sunday》。当时最引人注目的连载作品是《小神拳》(小山优(暂译))、《诚仔》(楳图一雄)、《福星小子》(高桥留美子)、《棒球英豪》(安达充)等。爱情喜剧开始流行。1982年末发售的合并号创下了228万部的记录,看起来似乎抓住了第一名《周刊少年JUMP》的后背——。

だが、そこへ全く違うアプローチで攻めてきた少年誌があった。『少年マガジン』である。

但是,有一本少年杂志却走向了完全不同的研究方向。那就是《周刊少年Magazine》。

少年誌からグラビアアイドルを!「少年マガジン」が拓いた活路

从少年杂志到写真偶像!“少年Magazine”开拓的出路

日本周刊少年jump新封面(周刊少年JUMP杂志的成长也如同一部少年漫)(8)

『少年マガジン』はもともとサンデーと並んで1959年創刊と、なんとジャンプの創刊より10年も早く登場した。当初は、藤子不二雄や赤塚不二夫らを擁するサンデーに人気で後れを取ったが、60年代半ば以降、『巨人の星』(作:梶原一騎、画:川崎のぼる)や『あしたのジョー』(作:高森朝雄、画:ちばてつや)のスポ根路線で巻き返し、少年誌初の100万部超え。そして、70年代には劇画路線を開拓して青年向け雑誌に転向し、大学生の間で「右手に(朝日)ジャーナル、左手にマガジン」と言われたこともあった。

《周刊少年Magazine》原本与Sunday一起创刊于1959年,比JUMP的创刊早了10年。当初,人气落后于拥有藤子不二雄和赤冢不二夫等人的Sunday,60年代中期以后,在《巨人之星》(作:梶原一骑,画:川崎升)和《明日之丈》(作:高森朝雄,画:千叶彻弥)的运动路线上卷土重来,少年杂志首次超过100万部。之后,70年代,开辟了连环画路线,转为面向青年的杂志,在大学生中被称为“右手(朝日)Journal,左手Magazine”。

だが、気がつけば、小学生らにそっぽを向かれたマガジンは部数を徐々に落とし、一方、小学生向けの作品を揃えた『少年ジャンプ』が代わって首位を取る。先にも述べた1973年のことである。この辺りからマガジンの低迷時代がしばらく続くが、78年にラブコメ路線の『翔んだカップル』がヒットしてから徐々に人気を回復。そして82年―― 少年誌初のオーディション企画「ミスマガジン」が始まる。

但是,回过头来发现,被小学生们无视的Magazine销量逐渐下降,另一方面,面向小学生作品齐备的《少年JUMP》取而代之成为首位。这是刚才提到的1973年的事情。从这时候开始Magazine的低迷时代持续了一段时间,直到78年爱情喜剧路线的《飞翔的一对》大热后渐渐恢复了人气。然后82年——少年杂志首次的试镜企划“Miss Magazine”开始。

それは、写真家の野村誠一を起用し、読者投稿で少年誌からグラビアアイドルを誕生させるというもの。栄えある第1回グランプリに輝いたのは伊藤麻衣子、第2回はグランプリが加藤香子で準グランプリに白石さおり、そして第3回グランプリが斉藤由貴だった。アイドル登竜門として成功した同企画に影響を受け、この時期、サンデーやチャンピオンも表紙を水着姿のグラビアアイドルが飾ることが定着する。

也就是聘用摄影师野村诚一,少年杂志通过读者投稿选出写真偶像。获得第一届冠军的是伊藤麻衣子,第二届冠军是加藤香子,获得亚军的是白石沙织,第三届冠军是齐藤由贵。受到作为偶像登龙门成功了的该企划的影响,同时期,Sunday和Champion也在封面上启用泳装写真偶像的照片。

だが、その流れに追随しない少年誌がただ一誌あった。『少年ジャンプ』である。

但是,只有一本少年杂志没有追随这一潮流。就是《少年JUMP》。

「北斗の拳」が確立した、ジャンプだけのオリジナリティ

“北斗神拳”确立了JUMP的独创性

日本周刊少年jump新封面(周刊少年JUMP杂志的成长也如同一部少年漫)(9)

1970年代後半から、ジャンプはギャグ漫画路線を歩んでいた。当時の人気連載は、『東大一直線』(小林よしのり)、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(秋本治)、『すすめ!! パイレーツ』(江口寿史)、『キン肉マン』(ゆでたまご)等々。だが、絶頂期の少年チャンピオンを前に、苦戦を強いられていた。そこで80年代に入ると、今度はラブコメ路線の少年サンデーに対抗して、新たに女性キャラクターが活躍する作品を投入する。それが、『Dr.スランプ』(鳥山明)、『ストップ!! ひばりくん!』(江口寿史)、『キャッツ♥アイ』(北条司)だった。

从20世纪70年代后期开始,JUMP一直走搞笑漫画路线。当时的人气连载有《东大一直线》(小林善范)、《乌龙派出所》(秋本治)、《前进吧!!海盗》(江口寿史)、《筋肉人》(蚵仔煎)等。但是,这一路线在全盛期的少年Champion面前,陷入了苦战。进入80年代后,与爱情喜剧路线的少年Sunday对抗,加入女性角色活跃的作品。也就是《阿拉蕾》(鸟山明)、《停止!! 云雀》(江口寿史)、《猫眼三姐妹》(北条司)。

気がつけば、広角打法で多様な読者層に受け入れられるようになっていた『少年ジャンプ』。部数も300万部に伸ばし、少年誌のトップに君臨していたが―― 足りないのは、ジャンプならではの、他にはないオリジナリティあふれる作品だった。

回过头来看,《少年JUMP》以广角打法打入了各种各样的读者层。销售量也增加到300万部,成为了少年杂志的首位——但还缺少一部,只有JUMP才有的,充满独创性的作品。

そして1983年―― 遂に、その作品が登場する。『北斗の拳』(作:武論尊、画:原哲夫)である。バトルものながら、敵が絶命する際に叫ぶ「ひでぶ」「あべし」「たわば」などの奇妙なフレーズや、主人公・ケンシロウの決め台詞「お前はもう死んでいる」などの独特の世界観がウケて、大ヒット。シリアスな話なのに、台詞はギャグという全くの新しい作風で、ジャンプは1年間で100万部も部数を増やし、400万部を突破する。

1983年——那部作品终于登场了。《北斗神拳》(作:武论尊、画:原哲夫)。战斗中,在痛击敌人时喊出的“hidebu”、“abeshi”、“tawaba”等奇怪的短语,以及主人公健次郎的名台词“你已经死了”等,独特的世界观有趣,大火。明明是严肃的故事,但台词却是搞笑的全新风格,JUMP在这一年内增长了100万部,销售量突破了400万部。

日本周刊少年jump新封面(周刊少年JUMP杂志的成长也如同一部少年漫)(10)

『少年ジャンプ』が孤高の653万部に向けて走り出す前夜―― 少年誌の群雄割拠の時代があったことを忘れてはいけない。

《少年JUMP》朝着653万部的孤高奔跑的前夜——不能忘记少年杂志群雄割据的时代。

本翻译为沪江日语原创,未经授权禁止转载。

,